澄水 藍のブログ

創作小説をアップします。

哀してる【長編】


長編/死ネタ/男の妊娠/BL



「湊」

「…どうしたの」

背中に触れる肌の心地良さ、それを遮る様な緊張に満ちた声が耳に届く。胴に回された逞しい腕がより強く、俺の身体を引き寄せる。

「…俺との子、欲しくない…?」

それは蜂蜜より甘くて、毒より苦い。呑んで仕舞えば最後、吐き出したとしても遅い。喉を伝い、臓器に達し、身体中を巡る。

「…欲しい」

愛というのは、何て愚かな感情なんだろう。たとえ残酷な結末が待っていたとしても、愛おしいと思ってしまう。愛してしまう。

薬指に銀色の輝きを携えた左手を開き、三粒の玉を取り出す。

たった三粒の錠剤が俺の愛する物へと変わる。

――


「輝」

「ん?」

陽性の検査器を差し出し、ソファに座る輝の隣に座る。

「妊娠…した」

声に出すと、より実感が湧いた。女の身体でない事、それだけを理由に一生叶うはずもなかった願い。恋人同士で、愛し合っているのにどこか女に引け目を感じてた。

それが満たされた気がした。愛の証が形になった。口が緩むのが抑えられない。きっと輝も、同じだろう。

横目でその横顔を見た。未だ陽性マークを呆然と見つめている表情に違和感を覚えた。

「嘘だろ」

検査器を胸元に突き返して来た。落としそうになった検査器を両手の中に納めて、顔を改めて見た。

今まで喧嘩した事は何度もあった。その度に怒った顔、辛そうな顔、泣きそうな顔を見て来た。

でも、その顔は、

「…マジかよ、冗談だろ」

怒りとも、哀しみとも、無論喜びとも全く違う。多分、一番近い感情は〝迷惑〝。

「…輝、欲しがったのは、お前だろ」

まるで予想してなかった展開に声が震える。胃が重くなって、心拍が上がってどうしようもない。

「いや、冗談だと思うだろ」

一瞬、呼吸の仕方を忘れた。無理やり吐いた息の所為で喉が締められてるように苦しい。おかしい、変だ、こんなの。

「…嫌だって事?」

「嫌って言うか、無理だろ。そもそもどうやって産むんだよ」

投げやりな言い方にむかついた。考えてすらいない。でも、言い返せない。女の出産の仕方さえわからないのに、男の出産なんて知るはずがない。

「下ろすよな?…そもそも、本当に出来てんのか?」

驚いた。ここまで迷惑そうな輝は初めて見た。本当にいるか居ないか、それは俺にだってわからない、自覚もなければ目に見える確証もない。

腹の上に手を置いたってわからない。でも、もしココに、芽生えたなら。

「殺す、て…事…じゃん」

「だからっ、男が産むことなんてできないだろ。それにまだ人の形じゃないんだから、殺すことには」

「殺すって事だろ、命、あんのに」

何をこんなに興奮してるんだろう。こんなんじゃ、今後について話すどころじゃない。

「俺に育てろって言うのかよ」

「育てろって…何だよその言い方…ふ、二人で、育てたいって、思って、」

ずっと輝はそのつもりで俺にあの薬を飲ませたって思ってた。だから飲んだ、安心した、信じた。輝と二人なら、頑張れると思ったから。

「…勘弁してくれよ、俺まだまだ色んなことしたいんだよ。子供の世話してる暇ないって。しかも男から産まれた子供育てるとか…」

聞いちゃいけなかった。心臓が締め付けられて、目頭が熱くなる。連動して、マイナスな感情が膨れ上がってきた。


“男だから“それはどんな状況だってどんな時だって障害になる。この関係になってから、それを気にしない日は無かった。

手を繋ぐのも、キスをするのも、SEXをするのも、全ての事に心の何処かで罪悪感があった。男女の関係なら当たり前の事なのに、男である所為で。


男から産まれた子を育てる自分、それを想像した輝の気持ちは、絶望。親からも、友人からも、他人からも、白い目で見られ続ける未来。

ポタ、と握り締めてた拳の甲に落ちた水に我に返った。何を泣いてるんだ、簡単な事だ。輝は中絶を望んでる、俺は輝との関係を終わらせたくない。俺は、輝が好きだから。子を降ろせば、俺たちの関係は続く。俺と、輝の子を、諦めれば…


長い沈黙が秒針の経過とともに過ぎていく。お互いの休日を合わせた今日、二人で服を買いに行こうと話していた。それも、俺のせいで無くなった。

「産むつもりか?」

時間が経って、少しお互いが冷静を取り戻した頃、輝が言った。この子を産む、俺がそう言えば輝は何を言うだろう。今までずっと、輝に愛されてる自覚はあった。男と男の関係、それさえも何の障害とも思っていないと判るほど、愛を伝えあってきた。

でも輝はこの子を、自分の子をきっと愛してくれない。この子を愛そうとする俺を愛そうとしてくれない。

殺したくない。叶うはずもない願いだったから。愛してる人と、“愛してる人との子“…どっちだって手放せるわけがない。

一度は収まった涙がまた、瞳に膜を張った。

「…産んでいいよ」

「!、ぇ…」

さっきとは打って変わって、胸が高鳴った。頬がじんわり暖かくなって、全身が期待に満ちた。聞き間違えじゃない、確かに、言った。

「いいの?」

「…いいけど、……ごめん、別れる」


――

家の中にあった私物は大方鞄に詰めた。後は自室の棚に入れてる箱だけ。箱の中には今まで輝から貰った物や二人で遊びにいった場所の半券や写真を入れている。全ての思い出が、ここにある。

蓋を開けた一番上に入ってる検査器。陽性の証である縦線が出ている。

この印は、本当なのか嘘なのか。お腹が自分の意思とは関係なく膨れて、もう一つの命が身体に宿る。自分の身体がどうなるのか。

怖い。

「ッ……ひぐッ、っ…」


――――

side.榎本輝


嫌いになったとか、そう言うことじゃない。本気で好きだし、愛してる。一生こいつと一緒に居たいって思ってた。

でも、まだ若い。一人の男としてまだまだ遊びたいし、好きな事したい。これから夢だって出来るかもしれない。

だから、重荷になる事からは避けたかった。足枷になる物は、今は、邪魔に思えた。もう少し、俺が大人になって、金もあって、心に余裕が出来てから…そう思った。

俺の所為なのはわかってる。面白半分であんな物飲ませた。でも、漫画やアニメの世界じゃない、あんな錠剤で男が妊娠する身体になるなんて、誰が信じる。

湊と子供と三人で生きる幸せな未来より、俺には窮屈な未来が大きく想像出来た。誰だってそうだ、自分の人生より大切なものはない。

湊は産みたいと思ってる、けど俺はそれを支えていく自信もなければする気も起きない。子を愛せなければ好きな人も愛せなくなる。ならいっそ、離れた方がお互いの為になる。


あれから三日、俺達の同棲生活が終わろうとしてる。寝室のクローゼットの前で、手提げ袋に畳んだ服を詰めている湊の背中を見つめる。

俺が別れを告げた瞬間から今日までずっと、これといった会話もなく過ごした。怒っている様子でもなく、心ここに在らずという風にぼうっとするようになった。

陽性を示した検査器、今は何処にあるのかわからないけれど、湊が持っているんだろう。検査器を持ってきた湊は、いつものようなぶっきらぼうな顔をしながらも嬉しそうに頬を緩めていたのは知っていた。

だから、あの日の夜は酷く罪悪感が込み上げた。もっと違う解決策があったかもしれないのにって、でも、思いつかなかった。今だって湊の姿を見ると辛い。


戻りたくても戻れない。戻るという事は現実を受け止め、その分の何かを犠牲にしなければならないから。俺の場合、犠牲にするものが大きすぎる。

悪い、湊。


――――

Side.紺野湊


古い、安いアパートを借りた。これからは一人で生活をしなければいけない、安く済ませられるならそれが良いから。輝はあのまま、あの家で暮らすことになった。本当はもう少し離れた場所にしようと思っていたけれど、住み慣れた場所の方が今後も便利だから、周辺で探した。

あれから一ヶ月、引越しの準備やらで遅くなったけれど産婦人科に足を運んだ。それ程大きくない病院、でも口コミサイトでは評価の高かった病院だ。

緊張で、顳顬を汗が伝う。病院の前に来て今更ながら、男の格好をしたまま来た事を後悔した。産婦人科なんだ、利用者は女性に決まってる。男が一人で行けば、少なからず不審に思われる。

下腹部がズキッと痛んだ。胃に違和感があって、具合が徐々に悪くなってくる。でも、もう一ヶ月も放っておいてた。それがどのくらいマズイのかはわからないけれど、少なくともいい事じゃない。

「…行こう」

自動ドアを抜けると病院独特の匂いが鼻をかすめた。キツい匂いもなく、何となく安心する香りに胸が下りた。

待合室にチラホラと女性が座っている。付き添いの男も、自分の愛しい人のお腹を撫ぜているのが目に入る。

“アラ、何ヶ月?”

“四ヶ月目なんです”

“良かったわね〜男の子?女の子?”

“女の子です”

“あら本当〜おめでとうね、旦那さんといつまでも仲良くね〜”

“うふふ、ありがとうございます”


良いな、ああいうの。誰かに祝福されるってすごく幸せな事で、同時に自信に繋がるんだって思う。

俺は、誰かに祝福されるんだろうか。いや、俺はいい。産まれてくるこの子が幸せになれるなら、俺がこの子をいっぱい祝福する。それがこの子が生きていく自信に繋がるなら。

「お次の方、どうぞ」

保険証を持って受付カウンターへと向かう。見られているのか、将又自意識過剰なだけか、背中に視線を感じる。大丈夫、落ち着け、大丈夫。

掲示した保険証を受け取りデータを目で追う様子を眺める。ふ、と動きが止まり、目が合った。

「旦那様、お連れ様の保険証はございますか?」

「ぇ、…」

一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。そしてその言葉の真意を理解し、初めて自分に対する常識の目が突き刺さった。

「ッ!!ぁ、や、やっぱり、いい、で、す…!すいませ、ん、」

恥ずかしさと混乱で、意識が飛びそうなくらい眩暈がする。冷や汗が背を伝い鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなった。

泣くな。当然なんだから。俺はどう足掻いても男なんだ。誰が妊婦だなんて思うんだよ、誰が薬の話なんか信じるんだよ、男の俺の、何を、診るんだよ。

呼吸がしにくい。ああ、またか、ここ最近ずっとそうだ。ちょっとでも精神的にクるとすぐに呼吸困難になる。嫌だ、こんな自分。

「落ち着いて、大丈夫。こちらへどうぞ」

遠くなりかけた意識の中、透明感のある声が耳に届いた。軽い指が俺の手を取り、肩を支えて室内に導いた。

「深呼吸して、リラックスして下さい。大丈夫ですよ」

大丈夫、その言葉をかけられる度に呼吸が落ち着いて、楽になっていくのかわかる。霞んでいた視界もハッキリしたものに変わり目の前の女性の姿をしっかり捉えた。

母親のような暖かみを感じる女性だと一目で思った。どこか、母さんに似てる。もう十何年前の話、物心がやっと着いた頃のボンヤリとした記憶。


「普通じゃないですよね、男が、妊娠、なんて、変ですよね」

呼吸を落ち着けるのに比例して、冷静になるにつれ、震える自分の声に泣きそうになる。誰に話したってそう言われ続けてきた。自分だって普通じゃないことくらいわかってる。

映画や、空想の物語の中の話じゃない。男が子を宿す器官を持ち合わせていないのも知ってる。誰しもが“知ってる事”だから、自分が今“そうじゃない”事が怖い。

「紺野さん、全然変じゃないんですよ。男性にも、赤ちゃんを授かるための器官がちゃんとあるんです。多くの男性はそれが機能しないままですが、稀に女性ホルモンの助けで機能するんです。私は海外で、三名の方の出産を何度も手伝わせて貰ったんです。産まれてきた子はみんな、女性から産まれてくるのと同じ、可愛い赤ちゃんですよ。紺野さんは、恵まれていますね」

見開いた目で凝視した。でも嘘を言っているようには到底思えないくて、重ねられた暖かい優しい手にまた目頭が熱くなった。

でも、同時に不安が増した。あわよくば、“男では産めない”と言って欲しかったのかもしれない。

「…そう、ですか」

今はそれしか、答えることはできなかった。


今の会社では到底、身体を気遣った生活が送れそうにない。せめて時間の融通が利きやすい、アルバイト生活になった。まだお腹だって今まで通りに薄い。仕事に慣れるまでは支障はない…筈。

「え、妊娠って…君、男でしょ?」

分かっていた事だし、覚悟してた事。俺のこの“異常”を何の疑問もなく受け止めてくれる人は全世界に何人といないだろう。全ての面接で自分の異常を話し、鼻で笑われ、同情の眼差しを浴びて帰る。そんな時間ばかり過ぎて行った。

「妊娠した…?あのね、女性でも妊娠できなくて苦しんでる人は大勢いるのよ。そんな話は冗談でもやめなさい」

助けてくれるかもと、母親にも電話した。昔は仲が良かったけれど父親との離婚を機に俺に興味が無くなったのか疎遠になっていた。

どうかしてた、母親に頼るなんて。金の事じゃない、妊娠に対して分からないことが多すぎるから知恵を借りようと思っただけ。母親の言い分は最もだと思う。だから、何も言わず通話終了のボタンを押した。

週に六日、バイトのシフトを詰め込んだ。そうしないことには子供が生まれた時にこの子を支えていく事が出来ないとわかっていたから。男なんだ、女性と比べれば多少の体力はある。少しくらい無理しないと、誰も助けてはくれない。

スーパーの品出しのバイトに採用された。大手のスーパーという事で、シフトさえ都合がよければ人は選ばないんだろう。面接自体もあっさりとしたものだった。

何がともあれ、救われた。これで何とか、この先に未来を見た。この子が生まれて不自由しないように、時間がある限り掛け持ちだってなんだってする。


“ホラあの子、男なのに妊娠してるって”

“え!てことは男と?”

“そういうことよね?全く、最近の若い子はどうなってんのかしら”

いくら大手だからといって、個人情報なんかは古株の人達には筒抜けだ。バイト先の面接で正直に話した妊娠の話は瞬く間にパートさんの間に広がっていった。日々の溜まった鬱憤を愚痴として吐き出す代わりとして、妊娠した男の噂話が程よくストレス発散になっているんだろう。

別に良い。気にしてないとは言わないけれど、それが事実だから。弁解する事も、言い返す事も何もない。

一人、俺の身を心配してくれたパートさんがいた。小さい子持ちだと言うその人はとても優しい。けれど、俺にこう言った。

“辛かったでしょう。同意のない妊娠だなんて…何かあれば力になるからね”

間違ってる。俺は、輝に“同意した”。子供が欲しいと、この口で言った。それに、辛くない。これから沢山大変な事が待ち構えていると思う、でも、輝との子の為と思えば、何も辛くない。


――――

Side.榎本輝


「輝~!ごっめ〜んお待たせぇ〜!」

小一時間待たせて、申し訳なさのかけらも無い顔で平然と現れたのは新しい彼女だ。湊と別れて三ヶ月、人肌が恋しくなる時期だった。

「ねー見てみて!可愛い~!似合う?」

「…ん」

「ちょっと今日どうしたの?機嫌悪いね?あ、スッキリした方がいいんじゃない?もう行っちゃう?」

人が居る場所でも堂々と人の股間に手を這わせてくる下品ぶりに溜息が出る。湊だったら、絶対にこんな事はしない。恥じらいの末、俺と二人きりの時に見せる素直さに愛おしさを持ち、興奮した。この女には一応の恋愛感情が芽生えたからこそ付き合ったものの、ここまで肉食だと引くものがある。

あんな別れ方をして、今こんな状況になってるのが最低だってことは自分でわかってる。実際頭の中はまだ、湊の事ばかりを考えてる。

産むんだろうな、俺との子。どうやって産むのかはわからないが、帝王切開…って言うのか、腹を切らないことには産めない。俺が愛してきたあの身体にメスを入れるって事だ。出産時側で見守ってくれる人は、手を握っててくれる人は、いるのか?一人で産んで、一人で育てて行くのか?無理だ、いくら責任感の強い湊でも。

俺と関係を持ったせいで、親との間に亀裂が入ったのも知ってる。誰が苦しむ湊を助けてやれる?これからの湊を支えていく…?そう考えると、今すぐにでも側に行って、抱きしめてやりたくなった。

いや、もう三ヶ月だ。もしかしたら湊も、別の男を作ってるかもしれない。別の奴と人生共に歩もうとしてるかもしれない。自分勝手に別れを告げておきながら、今更会いに行こうなんて、よく考えれば虫が良すぎる話だ。

俺が心配するまでもない…か。


――――

Side.紺野湊


ガシャンッ!!


「ちょっと!!何してるのよ!!」

「ぁ…、す、すいません…」

「大体ね、お腹庇いながら品出しなんてできないわよ!!邪魔になるんだから帰ったら!?」

「ッ……すいません…でも、…」

「いいから早く片付けなさいよ!!」

「……は、い」

床に広がり伝うドレッシングを搔き集める。割れた瓶を焦って触ったせいで、指先から血が滲んできた。少し膨らんできたお腹に身動きのしにくさを感じながら、それらを袋に移し替えタオルで床を擦る。

ここ最近、こんなミスばっかりだ。遅刻や早退も続いてパートやアルバイトの中での評価も最低。今日にでも解雇を言い渡されてもおかしくない。


「ぅえ゛ッ!!…ッ、は…ゲホッ、げほ、」

家路につく頃に急な吐き気に襲われた。急いで家に駆け込み、トイレに吐き出した。嘔吐物の最後、赤く染まった胃液が伝うのを見て、胃のあたりの服を掴んだ。ムカムカする。全身力が入らなくて、倒れそうだ。頭が酷く痛い。今までこんなに痛む頭痛に病んだ事はない。

頑張らなくちゃいけないのに、身体が思うように動かない。突然来る腹部の鈍痛も、偏頭痛の様な痛みも、膨れ始めた腹部に覚える不安も、続く睡眠不足も…着実に俺の体を蝕んで行った。

食欲も湧かなくて、あまり食べられない。作ること自体が辛くて、最近は食材の匂いを嗅ぐだけで吐き気を催す。立って歩く、たったそれだけの動作にも時間が要するようになった。

…辛い。

駄目だ。弱音を吐けば止まらなくなる。止まらなくなったらどうすることもできなくなる。幸い時間が解決してくれる問題だから、俺が耐えればいいんだ。

いよいよ耐えられなくなって、トイレの床に横になった。ゆっくり呼吸をして、胸に迫り上がる吐き気と戦う。また明日も仕事で朝が早い。早く、治さないと。そう思いながら、意識を手放した。


―――ー

side.榎本輝


このスーパーに来るのも久しぶりだ。湊と付き合ってた頃は湊が飯を作ってくれていて、食材の買い出しをするのに二人でよくこのスーパーを利用していた。俺の家からは少し離れた場所にあるけれど、値段も安くて質もいいからと言っていたのを思い出す。

久々に自分で料理をしてみようかと、閉店ギリギリの時間に足を滑り込ませてみたけれど、いつも湊の後ろにくっついていた訳で、自分の探している食品がどこにあるのかもなかなか掴めない。

広い店内で迷っていても無駄に往復するだけだ。店員に聞くのが一番手っ取り早い。近場で品出ししていた女性の店員に声をかける。

「すいません、コンソメってどこにありますか?」

しゃがんでダンボールから食品を取り出し並べていた店員。マスクをして黒縁の眼鏡をかけた女性が少し振り向いた。

「はい、コンソメですね」

視線も合わないまま、売り場に案内される。妊婦さんなのか、お腹のあたりにかかってるエプロンが膨らんでいる。売り場に着いた。様々な種類のコンソメが並んでいる。湊はいつも顆粒タイプのものを買っていた気がしたから、真似して顆粒タイプのものを選ぼうとした。

「これ、顆粒タイプですかね」

「…そうです、ね」

視線を感じて、案内してくれた女性の店員を見る。黒縁眼鏡の奥の目が見開き、俺の顔を凝視してる。目線が合わさって初めて気がついた。

「…湊?」


――


「お待たせ」

「いや」

閉店から十数分、店の裏口から出て来た湊は先程見た女の姿じゃなかった。髪も短く眼鏡もない、俺の恋人だった湊の姿だ。

一つだけ前と違うのは、お腹の膨らみだけ。

どちらが話しかけることもなくお互いの姿を見つめた。湊は、何を思って俺を見ているんだろう。自分を捨てた薄情な男、無責任な男、最低な男…だろうか。


「…ビックリした、女の人だと思ったから…。メガネは、ダテか?」

「うん。あのほうが不自然じゃないから」

口に出たのは他愛のない、店内での変装についてだった。女性に変装する事で膨らんだお腹を自然に見せようとしたんだろう。顔のパーツは童顔なせいか女性に見えなくもない。特に違和感なく変装できるだろう。現に俺はわからなかった。

身体は細身だが、それでもちゃんと男の身体だ。サイズの大きめの服で誤魔化している。更に痩せ細った身体に一際目立つ、膨らんだ腹。

湊には本当に悪いが正直、見慣れないというか…男の腹部が膨らんでいる光景が異様で、見ていられない。もしも俺が当事者じゃなかったら確実に、嫌悪感を露わにしてた。

「もう、そんなに…大きくなったんだな」

「……うん」

「……産むのか」

「うん」

何を今更聞いてるんだと後悔した。俺が思っているよりも数倍のスピードで湊の腹の中で俺の子供が成長していた。

「安心して、一人で産むから」

俺に罪悪感を与えまいとした配慮なのか、柔らかく微笑んだ湊に胸を刺す痛みが走った。見るからに窶れていて、暗くても分かるほどに悪い顔色でこんな事を言わせている自分に初めて、何をやっているんだと本気で思った。

「…湊、あのさ」


「ねぇちょっと、アレ」

「あら、まさかあの子と?」

「そうじゃない?やだわぁ~」

俺の言葉は、湊と同じ裏口から出てきた年配の女達に遮られた。声の音量を抑える気もないヒソヒソ話で、湊にも俺にも丸聞こえだ。

胸のあたりに一気に怒りが湧いて拳を堅く握り、渾身の怒りを込めてその女共を睨みつけた。開き直って言い返してやろうかと思ったが、右の二の腕を掴まれた感覚に湊を見た。

“辞めてくれ”

言葉に出さずとも視線で訴えてきた。もし俺がこの場で言い返したとして、困るのは湊だ。

「パートさん達」

「っ…いじめ、られてるのか…」

「そんなんじゃない。男が妊娠なんて、珍しいからじゃない?」

まるで他人事のように言う湊に、なんて声をかければいいのかを考えた。元はと言えば俺の軽率な行動が原因だ。“そうか”なんて軽い言葉で返していい事じゃない。でも、言葉が見つからない。俺が想像する何倍も、湊は苦しんでるし辛いんだ。

“待っててくれないか”

さっき言いかけた言葉だった。俺が、そのお腹の子を受け入れる準備ができるまで、俺を待っててくれって。でも、待てるわけがない、今辛い時に居てやれないと意味がない。そんな自分勝手な事を言い出し掛けた自分が嫌になる。

「もう帰るから」

「ぁ、ああ…」

風が冷たくなってきた。これ以上は湊の身体に悪い。どのツラ下げて身体を心配してるんだと思う、けど、今だけは。

「なあ、湊」

“俺の事、恨んでるか?”なんて、聞けない。恨まれていない方がおかしい。湊ひとりに全部背負わせて、俺はのうのうと自分だけの人生に逃げた。でも、湊は絶対に、俺を恨んでるとは言わない。だからこそ、これ以上困らせたくない。

「いや、何でもない…元気でな」

「うん」

そうだ。俺は、湊さえ元気に、幸せになってくれればそれで良い。相手が俺じゃなくても、湊を幸せにしてくれる奴がいるならそいつと幸せになって欲しい。

真っ暗になった道を歩いていく背中が、酷く儚く見えた。


―――ー

Side.紺野湊


体調が悪くなって早退した。仕方ないね、なんて言葉を掛けてくれる人なんていない。自分勝手なのは俺の方だから。

“今日の晩御飯なに〜?”

“今日はオムライスよ!”

“やったぁ〜!”

“本当にオムライスが大好きだなぁ”

“うん!!”

向かいから歩いて来る、ありふれた幸せな家族。両親の間に挟まり、嬉しそうに微笑む子供。

膨らんだお腹に手を当てる。この子との明るい未来が想像出来ない。それは今、苦しいからじゃない。この子だって生まれた瞬間から意志を持ち、成長する毎に周りの目を気にしていく。その時が来て自分の親が俺だと理解した時、この子はどう思うだろう。手を繋いで、親子…母と子として生きていけるだろうか。

怖い。親として認められないのが。

俺は、この子に何をしてあげられるんだろう。今の親子みたいに、普通の親子みたいに、普通の、幸せな人生を送らせてあげられるんだろうか。


川の上を掛ける橋に差し掛かり、足を止める。オレンジ色の空に、暗く影を作る雲がいくつも浮かんでる。

川の水面にキラキラと反射した幻想的な光景に吸い込まれそうになる。身を乗り出せば、簡単に落ちることが出来そう。低く頼りない柵はまるで、そうする事を止めないと、言ってるみたい。

飛び降りたら、簡単に死ぬんだろうな。俺も、この子も。それ程儚い存在を、どうしてこんなにも守りたくなるんだろう。それはきっと、輝との子供だから。愛してた…いや、今も愛してる、大好きな輝愛の証だから。

重い。腹部が急激に重くなった気がした。そうだ、輝はもう、この事に関わりたく無いんだった。こんな事を思われたって、輝は困る。輝の重荷になりたく無い、やめなきゃ。

チリッと痛んだ指先を見ると、前に瓶で切った傷口が開き、血が滲んでいる。

ぽろ、と何かが目から溢れた。一瞬それが何かわからなくて、伝った頬を手の甲で拭って始めて、泣いてると自覚した。そういえば最近、泣いてなかった気がする。泣く暇が無かった、と言ったほうがいいかもしれない。

輝に、会いたい。こんな事を思う自分が嫌いだ。どんなに思ったって、もう会えない。会っちゃいけない。

周りに人がいない事を確認して柵に手をかける。このまま上半身に重心を持っていけば、終わる。

楽しみだった。この子と輝と三人で生きて行く未来。そんな夢みたいなこと望んだから、罰が下ったのかもしれない。

視界が暗転し、何も感じなくなった。


――


「紺野さん。わかりますか?」

耳に届く、透明感のある声。薄く開いた目に映る、知ってる女性。何で…ああ、倒れたのか。身体が動かない。全身怠くて、横になっているのに立ちくらみしてるみたいだ。

「今はゆっくり休んで下さい。お子さんも休ませてあげましょう。食事、あまりされていないようですね」

こんなにも身体に限界が来てるとは思わなかった。毎日朝から晩まで働いて、家に帰っても寝るだけの生活を送ってた。そんな当たり前の生活でストレスも特に感じた覚えはなかったのに。

“悪阻”の辛さを初めて知った。食べ物を見ると意思と関係なく胃から嘔吐物が這い上がってくる。最悪、匂いを嗅ぐだけでもそうなってしまう。

お腹の肉や皮が引っ張られて痛い。女性のように柔らかくもない腹は、きっと女性よりも負担がある。…いや、俺はら女性がどれだけ苦しい思いをして子を産むかを知らない。きっと、同じだけ辛いんだ。


「紺野さん、出産まで入院を考えませんか?」

 正直、その言葉に甘えたかった。もう、全てが辛かった。肉体的にも、精神的にも…このままいつものように働けば、俺はまた、飛び降りようだなんて恐ろしい事を考える。

 でもダメだ。ギリギリまで、頑張らなきゃ。輝との生活で貯めていた貯金を合わせてもまだ、この子を迎える為のお金には足りない。

  首を横に降る俺の肩に手を置き、真剣な眼差しで見つめてくる。説得するような目から思わず視線を逸らし、俯いた。これは、俺だけの問題だ。俺が耐えれば、この子をちゃんと、親として迎えることができる。甘えられない。あと少し、あと少しだけ、頑張らせて。


――――


遠い意識の中、耳に届いた声。一定の音量で、速度で、騒がしく愛らしい声をあげている。

白い天井、その左端には良く知る女性の姿がある。本当に不思議だ。この人を見ると、心の底から安心する。

「紺野さん、おめでとうございます」

左の掌に感じた暖かい体温。それと入れ替わるように触れた、柔らかくてとても小さい感触。

「……ぁ」

止まらない。溢れる涙は作られた道を止め処なく伝い流れていく。

柔らかくて、儚い、でも、生きてる。


生まれてきてくれた。俺の子。ごめん輝、俺、今、凄く嬉しい。ちゃんと、赤ちゃんだ。男の俺でも、命を育てられた。ごめん、ごめん輝…俺、頑張るから。

だから、だからもし、もしどこかで会ったらその時は、一度でいい、抱きしめてあげて。

久しぶりに、声を上げて泣いた。


――


  “幸せになりたい”。誰しも、一度は思ったことがあることだと思う。

  俺は、自分も幸せになれるって信じて生きてきた。幸せの分だけ不幸があって、でも、それを乗り越えられる幸せがあるって。

  俺にとっての幸せは、どっちだったんだろう。この子と別れて輝と生きていく未来、輝と離れて、この子と生きていく未来。多分、どっちもだ。どっちを取っていてもきっと、俺は幸せだった。

  でも、きっとどっちも後悔した。今だってしてる。輝との未来を選ばなかった事。今も、まだ、愛してるから。

今はもう、考える事を辞めたけれど、俺の本当の幸せは、輝とこの子の三人で生きていく未来だった。どちらが欠けても叶わない、でも、きっと、すごく幸せな未来だった。

  輝、俺、もう振り向かないよ。この子の手を握るだけで、この未来を選んで良かったと心から思えるから。ごめん、輝。そして、



ありがとう。












――――

Side.榎本輝


 自動ドアが開けば、蒸し暑い空気が身体を取り巻く。インスタントコーヒーの入った袋を鳴らし、来た道をただただ歩く。

  休日の早朝だというのに、ちらほらと人が視界に入る。数人で集まる老人、公園で遊ぶ親子、ランニングを楽しむ女、酔い潰れ電柱にもたれるサラリーマン。

目の前を歩く、一組の親子。父親と子供だろうか。手を繋ぎ、隣を歩く我が子に笑いかける男の横顔は若く、俺と同じくらいの年齢にみえる。

何故だか、湊の姿と重なった。背丈も、体格も、何もかもが違うのに、小さな子供の手を繋ぎ、幸せそうに微笑むその姿に湊を見た。

湊の事を考えたのは、久しぶりだ。最後に会ったのは、湊の勤めていたスーパーの裏口だった。音信不通になり、湊が借りていたアパートも、今は別の人間が住んでいる。

あれから十三年、湊と別れてから、それだけの月日が経ったことに改めて驚いた。今はお互い、三十四の歳になる。

元気にしているんだろうか。お腹の…俺との子は、産んだんだろうか。育てられて、いるんだろうか。いや、湊なら心配ない。湊は、誰よりも愛情深い。きっと子供に愛を注ぎ、子供は湊の愛を沢山注がれ成長して、そしてきっと、親思いな子供に育ってるだろう。十三歳…中学生か。

とっくのとうに姿が見えなくなった目の前の親子。あの二人のように笑い合える親子を、湊で想像し、自然と顔が綻んだ。

  

「おはよう」

「…はよ」

帰宅し、キッチンにコーヒーを置き、テレビをつけ、ソファに身を沈める。何を観るわけでもなく、ただ延々と流れる画像を眺めていると、寝起きのカサついた声が背後から掛かった。振り向く事なく、適当に挨拶を返す。

洗面所に入る起きてきたボサボサ髪の妻を見て、自分の感情がどこにも動かないのを感じた。付き合って一年を経過した頃、俺の方からプロポーズをした。最初の数ヶ月は順調でもいざ夫婦になるとお互いの欠陥が目立つ。三年の月日が流れる頃には、俺達の仲はすっかり冷めきっていた。


電気ポットが沸騰を知らせた。重い腰を上げカップに入れたインスタントコーヒーに湯を注いでいく。

湊の事を思い出すと、懐かしさと、あの頃の幸せだった思い出が蘇る。今の女でなく、湊との未来を歩んでいたなら、俺は今も幸せだった。そう、確信を持って言える。今の収入なら、子供と三人で、暮らしていくことが出来る自信もある。周りからの目からも、湊を、自分の子を守る事が出来る。二人と、幸せになれる。

あの頃の自分が情けない。人生、努力次第でどうにでも出来るのに。大人になった今わかったところで、もう、今更戻ろうだなんて、言えるはずもない。

愛してた。いや、今でも、愛してる。


テレビの音量を上げ、コーヒーを啜り、適当なニュースを聞き流しながら新聞を読む。書かれているのは自分に関係のない他愛のない情報だ。見出しに興味をそそられた記事の文字に目を滑らせていく。

ニュースでは、二件の殺人事件が報道されている。俺の住んでいる地域とは離れた地区の話だ。これもまた、俺には直接関係のない事だ。

トーストを焼きにキッチンへ移動しようとした時、無意識に聴き取った単語があった。


こんのみなと


紺野、コンノ…みなと、?懐かしい響きに唇がその単語を繰り返した。どうしてその名前が、テレビから聴こえる?

画面に飛びついた。映し出されたのは、俺の全く知らない土地の知らないアパートの外観。画面下のテロップに書かれた文字を目で追った。意味が全く頭に入ってこない、なんて書いてある?どういう意味だ?キャスターの声が邪魔をして、なかなか理解できない。うるさい、少し、黙っててくれ。


“母親を刺し殺した長男逮捕 母親の性別への不満”


殺人…長男…性別…母親…不満…こんのみなと。錆び付いたように回らない脳みそで、必死に、パズルのように組み合わせ、繋げた。

「……みな、…と……?」

画面に触れていた手が重力によって下に落ちた。画面に映し出された、殺された“母親”の写真、それは紛う事なき、在りし日の湊の写真だった。






――――

白い花に囲まれ、眠るように目を閉じている姿は不謹慎にも、綺麗だと思った。触れた頬は時間の経過を感じさせない程に、昔と変わらない。色の無い唇を、そっと撫でた。何も無い。体温も、何も。

熱を発する鉄板の上に広がる薄灰色の粉骨。そこにも、何も残されていない。事件の傷痕も、切開した腹の痕も、“湊である“という、事実も。

これは、湊じゃない。湊は、まだ生きている。そんな思想が頭の中を埋め尽くした。生きている、生きていてほしい。信じたくない。湊がもう、この世にいないだなんて。もう二度と、湊に逢えないだなんて。


焼け跡の左側、より黒く燻んだものを見つけた。それは、五本の並んだ残骸からは外れた場所で、焼けた棺の釘に紛れている。係員の静止を払いのけ、素手でそれを摘まみ上げる。焼け付く痛みが、握り込んだ手のひらを焼いた。


これは、湊だ。


壺に収められた湊は、母親の元に帰って行った。一人、火葬場の屋上で煙突から登る、誰のものとも知れない煙を眺めている。延々と、迷いなく天に昇っていく。

胸ポケットから封筒を取り出し、封を破る。火葬時間の合間に一人、よく知った女性が声をかけてきた。昔、初めて会った時の印象とかなり変わっていて気がつかなかったが、湊の母親だった。彼女は一つの封筒を手渡して、俺の元から去っていった。


中を改めると、光沢のある紙が見えた。それは全部で五枚ほど。写真に刻まれた日付はどれも十年以上前のものだった。

五枚目の写真にだけ、端に小さくメッセージが書かれている。一滴の雫が文字の上に落ちた。雨、そう思って空を見上げたけれど、青い、雲ひとつない空が広がっている。止まらない、誰か、止めてくれ。

「湊…みなと、…湊……」


写真の中、一人の男の子の隣で、手を繋ぎ、微笑む湊は言った。



輝へ 俺は今、凄く幸せです。



End.

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